新聞一覧|長崎県立長崎図書館 郷土資料センター

長崎県の郷土資料

新聞一覧

郷土資料センターでは、当センターまたは長崎歴史文化博物館に収蔵する明治期以降の郷土の新聞を、原紙か原寸大の複写、またはデジタル画像の形で閲覧できます。

なお、明治時代の長崎で発行された英字新聞については長崎歴史文化博物館で閲覧可能です。

〇郷土の新聞一覧

〇主な所蔵新聞の解題と記事

〇その他の新聞

郷土の新聞一覧

新聞名閲覧可能期間

資料の形態

備考発行場所

長崎新聞(明治6年刊行)

現在の長崎新聞と直接の関係はない

1873(明治6)年1月から7月まで復刻本(昭和60年刊)により閲覧可能 長崎市

長崎新聞(明治7年刊行)

現在の長崎新聞と直接の関係はない

1874(明治7)年3月から9月までデジタル画像、原紙は長崎歴史文化博物館に収蔵 長崎市

長崎新聞(明治8年刊行)

現在の長崎新聞と直接の関係はない

1875(明治8)年5月から8月まで。デジタル画像、原紙は長崎歴史文化博物館に収蔵明治9年1月に西海新聞に改称 長崎市
西海新聞・鎮西日報

1876(明治9)年。

1878(明治11)年から1882(明治43)年まで。

デジタル画像明治15年9月に鎮西日報と改称長崎市
九州日之出新聞1908(明治41)年1月から1918(大正7)年2月まで。デジタル画像または複写 長崎市
東洋日の出新聞1902(明治35)年3月から1924(大正13)年12月まで。デジタル画像または複写、原紙は長崎歴史文化博物館に収蔵 長崎市

長崎新聞(太田雪松氏創刊) 

現在の長崎新聞と直接の関係はない

1906(明治39)年7月から1918(大正7)年5月まで。
1922(大正11)年10月から1935(昭和10)年8月まで。
デジタル画像または複写および原紙 長崎市
長崎新報(現在の長崎新聞の前身)1907(明治40)年1月から1910(明治43)年12月まで。デジタル画像、原紙は長崎歴史文化博物館に収蔵 長崎市
長崎日日新聞(現在の長崎新聞の前身)1911(明治44)年4月から1915(大正4)年7月まで。
1923(大正12)年9月。
1927(昭和2)年から1942(昭和17)年3月まで。
1946(昭和21)年12月から1959(昭和34)年1月まで。
デジタル画像または原紙、複写1942(昭和17)年4月に「長崎日報」に名称変更。長崎市
長崎民友新聞1940(昭和15)年12月から1942(昭和17)年3月まで。1946(昭和21)年12月から1959(昭和34)年1月まで。デジタル画像または原紙、複写1942(昭和17)年4月に「長崎日報」に名称変更。戦後、1946(昭和21)年12月に「長崎日報」から分離独立長崎市
長崎日報(地方紙合同、現在の長崎新聞の前身)1942(昭和17)年4月から1945(昭和20)年7月まで。デジタル画像または複写

1942(昭和17)年4月に「長崎日日新聞」「長崎民友新聞」「佐世保軍港新聞」「島原新聞」が合併

(1942年4月は旧長崎日日系と旧長崎民友系で別々の紙面構成)

長崎市
長崎新聞(中央紙と合同、現在の長崎新聞の前身)1945(昭和20)年7月から1946(昭和21)年12月まで。デジタル画像または複写「長崎日報」「読売報知新聞」「朝日新聞」「毎日新聞」の合併長崎市
長崎新聞1959(昭和34)年から現在デジタル画像または原紙1959(昭和34)年に「長崎日日新聞」と「長崎民友新聞」が合併長崎市
夕刊 長崎タイムズ・夕刊長崎日日1949(昭和24)年11月から1954(昭和29)5月原紙1951(昭和26)年5月13日付けで「夕刊長崎タイムズ」から名称変更長崎市
長崎時事新聞1965(昭和40)年7月から1968(昭和43)年7月原紙 佐世保市
サセボ商工新聞1968(昭和43)年11月から1985(昭和60)年8月原紙 佐世保市
佐世保新報1970(昭和45)年9月から1971(昭和46)年2月 1903(明治36)年創刊原紙 佐世保市
西海タイムズ1971(昭和46)年1月から1992(平成4)年10月原紙終刊佐世保市
県北タイムズ1982(昭和57)年6月から1991(平成3)年5月原紙終刊佐世保市
政経新聞2007(平成19)年8月から2019(平成31)年3月原紙 佐世保市
島原新聞1971(昭和46)年8月から現在 原紙1977(昭和52)年8月~1982(昭和57)年7月は、所蔵なし島原市

壱岐新聞

(発行:(株)アットマーク)

2012(平成24)年4月~現在原紙 壱岐市
壱岐新報2012(平成24)年4月~現在原紙 壱岐市
壱岐日々新聞2008(平成20)年1月~2016(平成28)年5月原紙廃刊壱岐市
新壱岐1982(昭和57)年8月~2012(平成24)年5月原紙廃刊壱岐市
壱岐日報1970(昭和45)年6月~2012(平成24)年3月原紙

第1811号は、所蔵なし  廃刊

壱岐市

壱岐新聞

(発行:壱岐新聞社)

1982(昭和57)年7月~1997(平成9)年5月原紙 壱岐市
ふれ太鼓壱岐1987(昭和62)年11月~2001(平成13)年3月原紙終刊壱岐市
壱岐正論1982(昭和57)年8月~2007(平成19)年3月原紙 壱岐市
対馬新聞1982(昭和57)年8月~現在原紙 対馬市
対馬評論1982(昭和57)年8月~2007(平成19)年5月原紙終刊対馬市
五島新聞1977(昭和52)年4月~1999(平成11)年12月原紙1978(昭和53)年6月~1984(昭和59)年5月は、所蔵なし五島市
五島新報2008(平成20)年3月~2014(平成26)年1月原紙終刊五島市

 

主な新聞の解題と記事

長崎新聞(明治6年刊行)現在の長崎新聞と直接の関係はない

明治6年1月、本木昌造が、松田源五郎・池田日南・西道仙らとともに、本木昌造の経営する新町の活版所で発行した。記事は、地元長崎のニュース、海外のニュース等が主な内容ですが、読者の投書記事、広告、上海相場記事も載せています。型は、現代の新聞とは大分異なり、半紙二つ折りの和紙を使用した10枚程度の冊子型です。月1~3回発行。定価1部3銭3厘。同年12月廃刊。 1号から13号まで現存(ただし、2号・3号を除く)しており、昭和60年に『明治六年の長崎新聞』(長崎文献社)として解説も加えて復刻されています。

 

参考文献『長崎県の郷土史料』

 

長崎新聞(明治8年刊行)現在の長崎新聞と直接の関係はない

発行は新聞局(第125号から以文會社と改名)。明治8年2月本田實が、明治6年の長崎新聞と同じ題名で再刊し、西道仙が編集長となった。記事の内容は、明治6年長崎新聞と似たような内容であるが、各地からのニュースや官庁記事も多くなり、内容も多彩になってきている。型は、西洋紙4枚8頁程度の冊子型である。隔日発行。定価1部1銭5厘。同年12月の第134号まで発行を続け、翌明治9年1月から西海新聞と名を改められました。第35号(5月3日)から第86号(8月30日)まではデジタル画像で閲覧可能。長崎歴史文化博物館には、第2号から第134号までそろって閲覧できます。

 

参考文献『長崎県の郷土史料』

 

西海新聞・鎮西日報

発行は以文會社。明治9年1月、明治6年発行の長崎新聞が西海新聞と改名して発行されました。社主は、引き続き本田實。編集長の西道仙は、明治10年2月退社。明治14年10月、それまでの隔日発行を毎日発行とし、明治15年9月、名称を鎮西日報と改めています。デジタル画像で、1876(明治9)年1月14日から1877(明治10)年1月30日まで、さらに1878(明治11)年3月から1910(明治43)年5月13日まで閲覧可能です。デジタル画像で収蔵されていない期間で、明治10年3月と4月は、長崎歴史文化博物館に原紙が収蔵されています。

 

九州日之出新聞・東洋日の出新聞(創刊者:鈴木天眼)

九州日之出新聞題字         東洋日の出新聞題字

九州日の出新聞、東洋日の出新聞ともに福島県出身の鈴木天眼(本名;力)により創刊されました。

天眼は東京で創刊されていた日刊紙「二六新報」の主筆でした。朝鮮半島の支配権を巡り日清間の関係が悪化すると、民間の軍事組織「天佑侠」を組織し、日本が朝鮮に軍事介入できる混乱状況を醸成しようと、現地で画策します。この後、過激な行動はなくなりますが、積極的な大陸経営・大陸進出の考え方は一環していました。1899(明治32)年、長崎で「九州日之出新聞」の創刊に参画、内部対立で退社後、1902(明治35)年、「東洋日の出新聞」を発刊します。

日清戦争・義和団の乱以後の日本の大陸進出が不十分であるという考え方を持っていた天眼は、対露強硬の論陣を張り、日露戦争勃発後は、地方新聞ながら西郷四郎らを特派員として派遣します。西郷は柔道家でもあり、小説「姿三四郎」のモデルともいわれています。しかし、戦争が長期化すると、休戦に向けての外交交渉・講和を主張、ポーツマス条約締結を明確に支持します。当時、長崎市内には、東洋日の出新聞の他に「長崎新報」・「九州日之出新聞」・「長崎新聞」(以上3紙、この時期のものは残っていない)・「鎮西日報」(この時期のものは長崎歴史文化博物館に収蔵、当センターでもデジタル画像で閲覧可能)の4紙が発刊されていましたが、全て講和反対でした。全国の多くの新聞が講和反対を唱える中、東洋日の出新聞は新聞史上に異彩を放っています。天眼は辛亥革命も支援しており、孫文は、大正2(1913)年、天眼宅を訪問しています。

 

参考文献『長崎が出会った近代中国』横山宏章 著/海鳥社/2006年、『東洋日の出新聞 鈴木天眼 アジア主義のもう一つの軌跡』高橋信雄 著/長崎新聞社/2019年

東洋日の出新聞より

明治38年5月24日~30日 「日本海海戦」前後の記事
大正7年7月25日~同8月17日 長崎市の米騒動

九州日之出新聞より

長崎新聞(太田雪松氏創刊)

長崎新聞(太田雪松氏創刊)題字

鳥取県出身で早稲田大学を卒業した太田雪松氏は、1900(明治33)年に「九州日の出新聞」の主筆として迎えられました。太田氏が同社から独立して、1905(明治38)年に創刊した新聞。大正元(1912)年の護憲運動では、「長崎日日新聞」「九州日之出新聞」「東洋日の出新聞」が護憲派の論陣を張ったが、本紙のみが当時の桂太郎内閣を支持しました。社長の太田雪松は1908(明治41)年5月に1000号を機会として退任し長崎を去りました。1935(昭和10)年8月に休刊。現在の長崎新聞とは直接関係はありません。

 

参考文献『長崎新聞社史』

昭和2年4月23日 金融恐慌でモラトリアム発令

昭和2年7月6日 「日本新八景」に雲仙選ばれる

 

長崎新報・長崎日日新聞・長崎日報・長崎新聞

長崎日日新聞題字    長崎日報題字

現在の長崎新聞に連なる新聞の系統です。帝国憲法が発布された明治22(1889)年当時の長崎には保守系の「鎮西日報」しかなく、その9月に民権派の新聞として家永芳彦らによって長崎新報が創刊されました。明治44(1911)年2月に一旦廃刊のあと、同年3月に長崎日日新聞と改題して再発刊。1942(昭和17)年4月には東条内閣の一県一紙政策に則り、「長崎日日新聞・長崎民友新聞・佐世保軍港新聞・島原新聞」が合同して「長崎日報」となりました。その後、昭和20(1945)年7月に新聞非常措置に基づき、長崎日報は中央紙「朝日・毎日・読売」と合同して「長崎新聞」と改題して終戦を迎えました。戦後昭和21(1946)年12月に四紙に分離、「長崎日日新聞」として再出発。昭和34(1959)年1月に「長崎民友新聞」と合併して、「長崎新聞」と改題し、現在に至っています。

 

参考文献『長崎新聞社史』

長崎日日新聞より

昭和17年3月31日 終刊の言葉
昭和17年3月31日 東条首相の来崎

長崎日報より

昭和19年5月4日 「活水」学校農園

 

長崎民友新聞

長崎民友新聞題字

明治末から大正初期にかけて、長崎には「九州日之出新聞・東洋日の出新聞・長崎日日新聞・長崎新聞」の4つの有力な日刊紙がありました。代議士西岡竹次郎によって、1924(大正13)年11月に創刊されたのが「長崎民友新聞」で、選挙戦で論陣を張る場の必要性を感じ、代議士に初当選した半年後の創刊でした。わかりやす用語と紙面で読者を急激に増やし、翌年には夕刊とともに、「佐世保民友新聞」も創刊しています。1942(昭和17)年、国策により他紙と合同して「長崎日報」となります。戦後1946(昭和21)年に再び分離独立して「長崎民友新聞」として復刊し、1959(昭和34)年1月に「長崎日日新聞」と合併するまで発行されています。

 

参考文献『長崎新聞社史』

昭和16年3月2日 大相撲長崎/島原場所
昭和34年1月9日 諫早眼鏡橋 来月から解体移転

 

その他の新聞

現在も発行中

現在も発行中

平成24年3月で廃刊

平成24年5月で廃刊

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